私と食・原点の物語 〜 喜んでいただけることの喜び 〜

私と食・原点の物語 〜 喜んでいただけることの喜び 〜

食アドバイザー 田口三江子が語る気づき発見コラム 常食への旅

Prologue 私と食・原点の物語 ~喜んでいただけることの喜び~


「お父さんになにか作ってあげたい」。
小学校3年生の私は、父の誕生日になにか料理をつくってあげたいと、そう母に言ったそうです。
今思えば、自分からそう言ったのではなく、母からそそのかされてそう言ったのかもしれません。
それ以前から、料理に対して興味を持っていたようですが、それがいつ頃からの事なのか、なぜ興味を持ったのか、母も私も記憶がありません。
ただ、いまだに私が覚えていることは、「料理を教えて」と母に言ったら、「料理は人から教わるものではない。見て覚えるもの。
だからお母さんの手伝いをしなさい」と言われたことです。

 お父さんっ子だった私は、包丁をはじめて握ったその頃、誕生日に「サラダ」を作ってあげることになったのです。
材料は、レタス、トマト、玉ねぎ…、そんなものでした。ドレッシングはなんだったのでしょう。
それは記憶にないのですが、強烈に覚えていることは、玉ねぎスライスが1センチほどの厚さの輪切りだったということです。

 父は味にとてもうるさく、日ごろから母の作った料理の味についてなにかと小言を言っていることを知っていた私は、
おそるおそる、「サラダ」というよりは、母からなんの手助けもない「生野菜の盛り合わせ」を差し出しました。

 不思議と、父がそれを食べてくれている姿は一切記憶に残っておらず、ただ「おいしい」と言って最後まで食べてくれ、
その後があるのですが、食べ終わって間もなくするとトイレに通っている父の姿が鮮明に記憶に残っています。

 この最後の顛末は、父が神経質で、ちょっとでも目の前の食べ物に「大丈夫かな?」と思ったものにはおなかが反応してしまうという結果でした。
そのことを、「お父さんは、おなかを痛くしてまで私の作ったものをおいしいと言って食べてくれたんだ」と、こども心に悟り、
あれほど味にうるさかった父が「おいしい」と言ってなんの小言も言わずに食べてくれたことのうれしさ以上に、なにか特別なうれしさを感じました。
 この話をさせていただくときに、私はい つも気恥ずかしさを感じます。
でもこれは私が「食」と出会い、「食」によって人に喜んでいただけることの喜びを知ることになった原点の物語なのです。


山形生まれで山形育ちの父は、昭和8年生まれでした。
6人兄弟の末っ子だった父の家系は代々商人。
その父が、同じく山形生まれで山形育ちの、代々農家の家系に生まれた母と結婚する前は、 就職で出てきた東京のあちこちのお店でおいしいものを食べ歩いていたそうです。
母は4人兄弟の長女。
こどものころから洋裁が好きで家事などはそっちのけで洋裁に明け暮れる日々を過ごしたそうです。
そんな母が、どういうわけか、東京に行きたいと思ったときに、ちょうど父が勤めている東京の材木屋の事務員を募集していることを親戚筋から聞いて知り、
喜び勇んでそこに就職するために上京しました。

 忙しい農家の出であった母は、料理はおろかご飯の炊き方も知らずに父と結婚したのですが、私が乳飲み子だったころ、
ちゃぶ台にのせた貧しい晩御飯を、「こんなまずい飯が食えるか!」と言われてひっくり返され、私を抱いて家出をしました。
ところが行くあてもなく、国分寺のオリンピック競技場の近くにあった当時の家からそれほど離れていない踏切の前で、
電車が何本か通り過ぎるのを見てから家に引き返したそうです。

 それから母は、料理本を手に入れて俄然料理の勉強をしはじめました。
 そんな経緯があり、私のこども時代には、母は料理上手な人になっていました。
まだ物の少ない時代、お菓子なども全部手作りしてくれ、暮らしぶりは決してゆとりがあるわけではありませんでしたが、幸せなこども時代を送らせてもらいました。
 母は、自分のような経験をこどもにさせまいと心に決めていたようで、私がこどものころから料理好きになったのは、そんな母と今は亡き父のおかげなのだと今更ながら感謝の念に堪えません。

この度ご縁をいただき、今回からこのコーナーで「食」にまつわるコラムを書かせていただくことになりました。
次回から11回に渡り、私のこれまでの人生で最大と言ってもいいような、「常食」の常識を覆すような気づきと発見の旅にお付き合いいただければと思います。

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