竹布が持って生まれたその使命を果たす時が来ました。
熊本県甲佐町。
この里山から、念願の国産竹のガーゼ「守布(まもりぬの)」をいよいよ今年、皆さまにお届けできるようになります。
2001年9月、TAKEFU(竹布)の持つ、まれに見る抗菌力を発見した日の夜、脳裡に浮び、指し示された『一枚のガーゼ』のメッセージ。
私はその日より竹を植え、育て、ガーゼとなる繊維を作る使命を頂きました。まだ始まって10年余りの途上にあり、永い永い一万年という繊維の歴史を考えると、スタートしたばかりに過ぎません。
振り返るに短くて長い10年の歳月。実に色々な試練を頂きました。しかし、全ての技術はノウハウとして残り、今後無形の財産として、引き継がれていくことになります。壁に当たってもやめない限り、失敗はありませんからね。
開発をスタートした1999年は、竹から繊維が出来るとの確信は何もなく、今にして思えば、よくも言葉の通じない異国の地で、そんな無謀なことをしようなどと思ったものです。
一般的な社会通念では、3人もの幼い子供を持つ父親のすることではありません。実際、当初の2年間は、一緒に生活をしていても、子供の成長に気が付かなかったくらいです。
妻にそれを話したことはありませんので、この文章を読んだら、改めて呆れ返ることでしょう。
神社の護符と並び置かれるこの『祓布はらいぬの』は、
日本で織ったものであって欲しいと。
2011年には、高野山の丹生都比売神社にて、『祓布(はらいぬの)』の頒布が開始されました。日本人の心に寄り添い守り日々の気づきの布として浴室に掛け置かれる布。心と体を禊ぐ布でもあります。
2002年よりその発想はあったものの、私にはこだわりがあり、神社の護符と並び置かれるこの『祓布』は、日本で織ったものであって欲しいと思っていました。
出会いは2010年の秋、かつて300軒のガーゼ工場を有した、愛知県知多半島、1軒の工場がTAKEFU(竹布)ガーゼを織るという、難しくて利の薄い仕事をお受けくださいました。ガーゼの工場は、また『祓布』の工場でもあります。
2011年の元旦より、丹生都比売神社にてお領け頂きたいという夢が叶い、『祓布』の種が一粒、日本人の心に蒔かれました。
そして、2011年3月11日、日本は東日本大震災という深い悲しみに見舞われてしまいました。原発という人災の犠牲になった福島は未だに出口の見えないトンネルに入り込んだままです。TAKEFU(竹布)ガーゼは震災後すぐに、1月から少しずつ織りためた生地を宮城県の被災地にお届けすることが出来ました。
竹やぶを切り開き、再び光が地面に届く竹林
日本は地方の里山から再生していくのです。
それから1年10ヶ月を経て、ようやく熊本県甲佐町にて、廃校跡地(約5000坪)を活用し、ガーゼの加工工場を中心に衣・食・住に於ける竹の総合利用のモデルが2013年初頭よりスタートすることになりました。
竹やぶを切り開き、再び光が地面に届く竹林へと、また竹の畑として再生します。その林は再び美味しい筍をもたらし、間伐した竹は野焼きをし、やわらかなポーラス炭となり、また枝葉もろとも竹粉とし、微生物のエサとなり、すぐれた堆肥とすることができます。これにより、田畑の農業、つまり日本人として最も大切な米、及び野菜を完全無農薬で簡単に栽培することができるようになります。
また風の通る竹林は、人の疲れた心を癒すことができるのです。私は美しく甦った竹林で瞑想し、そこからもたらされた竹を活用した安心、安全な米や野菜を頂く場を設けます。そこは、都会で疲れた人が、その疲れをまずは癒し、次に自分を見つめ直す場とし、そして同じ価値観を持つ友と出会い語り合う場としたいと思っています。
目を閉じてみてください。
竹の葉ずれの音が聞こえます。地面に散り敷く竹の枯葉がその地下にたくさんの微生物を育む豊かなふかふかの土を作っています。日本中の竹林がこん
な風に蘇るほどに、日本は地方の里山から再生していくのです。
若者よ、休耕地を再び畑へと再生し、食料自給率を25%から再び100%へと近づけていきましょう。
世界が食糧難になった時、それぞれの国は自国の民が優先となるでしょう。
『人が最も痛み苦しむその時に、そっと傷に寄り添い、ただ快癒を祈る一枚のガーゼ』が国産でなければならないように、食料の自給が大切なことを実践により熊本より発信したいと思います。
今年大切にしたいひと言
2013年は念願の国産竹布ガーゼ『守布』(まもりぬの)が発売になります。
それによってより明確となる竹布の目指すところをこのような言葉で表現したいと思います。