イライラのぶつかり合いで、
心の中に“繰越残高”のような“澱”が・・・。
暑中お見舞い申し上げます。
夏バテ、夏風邪は大丈夫ですか?
実は少し前に、朝から娘とちょっとした事で言い合いになり、双方嫌な気分になることがありました。
私も思うようにならないことが溜まってイライラし、娘も就活などで同じようにイライラして、お互いのイライラがぶつかり合った感じでした。
「お父さん、最近言葉が荒くなっているよ・・・」そう娘から言われた時に、ハッとすると同時に「見透かされていた」と恥ずかしくなりました。
と同時に「自分でも分かってんねんけど、お父さんもいろいろあるねん」と一瞬言い訳してから「でも嫌な気持ちにさせたのはごめん・・・」と半分は素直に、半分は“正当防衛?のごめん”を口にしていました。
「何でそこで自分を護るような中途半端でカッコ悪い謝り方をするねん・・・」と自分の素直な心は訴えていましたが、どこかで娘に格好をつけていた自分がいたのだと思います。
その場はそれでお互い嫌な空気感が65%くらいは収まって、事なきを得ましたが、あとの35%は心の中の“繰越残高”のような”澱(おり)”になっていきました。
因みに、人間とは自分に都合の悪いことは強制失効して忘れ去る、なかったことにすることができる動物で、全てを抱え込んでは生きていけない生き物でもあります。
実際に私達は、誰しもこの“澱”のようなものを日々積み重ねながら“自動消却”しているのだと思います。
でも今回ばかりは、この35%の“澱”がなかなか自動消却できず、結局は翌日の朝、「昨日は荒々しい言葉で嫌な気持ちにさせて、本当にごめんやった・・」と娘に謝っていました。
こちらがようやく自分の我を捨て、素直な気持ちで謝れた時、彼女の中にも燻っていた“嫌な感覚”が氷解し、すっきりとした笑顔になって、それからの会話はとても弾みました。
私も何ともいえない軽やかな気持ちで会社に行くことができました。
この歳になって、ようやく解ってきたものの、
「知るは易し、行うは難し」。
些細な日常のひとコマですが、これはとても重要なことなんだと思います。
嫁さんに対しても勝手に“自動消却”をせずに、時間をあまり空けずに謝ったり感謝したり・・・。素直になって、できるだけ“澱”を残さないような言葉がけができるようになってきました。
(会社のメンバーの前ではまだまだですが・・・。スミマセン)
そのせいか、とても仲良く、楽しい日々を過ごしています。
以前の私は、嫁さんが不安、不満に思うことを上の空で聞いていたり、家族のために一生懸命気を使い、頑張ってくれていることに、素直にタイムリーに「ありがとう」や「お疲れ様」「ごめんね」などが言えなかったりして、とても大切なことを後回しにし続け、知らず知らずに“澱”をいっぱい溜めてしまっていました。
始めのうちは耐えてくれていても、その辛い感覚、大切に思われていないやるせなさは、“澱”となって嫁さんの心に積もり積もっていき、やがてどこかで私は最後の地雷を踏んで“大決壊”することに・・・。
その時の嫁さんの怒りと嘆きの“感情の大爆発”は、積もらせた私の業(ごう)の分だけ大きくなって、吹き飛ばされるくらいに跳ね返ってきました。
これは本当にメチャメチャ痛みますけれど、まさに自業自得。さながら、悪さばかりしていた孫悟空の頭に「自戒・自浄」を促す輪っかを着けた“仁王と化したお釈迦様”のようでもありました。
今から思えば、嫁さんでさえ我慢の臨界点を越えて、大小の様々な“感情のビッグバン”を起こさせてしまってきたのに、幼少から大学までどうしようもない“強情っぱりのやんちゃ坊主”だった私を、よく母親は頭と心の血管が切れずに育ててくれたものだとつくづく思います。
この場をお借りして、心から素直に「お母さん、許してください。本当にいろいろなことで迷惑と心配と苦労をかけて・・・。
そして、辛抱して何不自由なく大切に育ててきてくれたこと、本当に本当にありがとう・・・」と、懺悔と感謝に労いの気持ちを添えて伝えたいと思います。
人生の幸福や成長は、素直な自分、分け隔てしない
純粋な自分自身である瞬間を刻んでいくこと。
この歳になってようやく、日々の“澱”をできるだけ溜めずに生きていくことがどれだけ大切なことなのか解ってきたものの、「知るは易し、行いは難し」で、なかなか難しいことですね。
「自分の非をタイムリーに認める」「ちょっとした人の情にタイムリーにお礼を言う」「人から受けた恩をタイムリーにお返しする」「老若男女、貴賎を問わず、気にかけてもらったり世話になったら、タイムリーに感謝を伝える」など、間髪入れずに誠心誠意で実践するのは、当たり前のことのはずなのに、滝に打たれて修行することより何百倍も難しいことかも知れません。
そんな話を娘としていたら「“ありがとう”“ごめんなさい”“許してね”“大丈夫?”なんて言葉は幼稚園で教わったことなのに、大人になればなるほど難しくなるね・・・」と彼女も言っていました。本当にそうだと思います。
解消しきれていない“澱”を、人生でいっぱい溜め込み、それが“心の重し”“魂のかさぶた”となって生きにくくして、ようやく人生の最期にその重荷を降ろした方がいいことに気づく・・・。
最期のろうそくの灯が大きく眩しいくらいに輝く瞬間があるように、人生の最期の最期にやっと素直な自分になって、世話になった方々にお礼を言ったり、非礼を詫びたりしながら、人生でいっぱい溜めてきた“澱”を吐き出して、想い(念)残すことなく旅立ったいく・・・。
「終わり良ければ全て良し」ですが、人間ってそういうものなのかもしれませんね。
そういったことを、文学博士で国際文学療法学会の会長でもあり、たくさんの方々の最期を看取ってこられた鈴木秀子先生が、ご著書『死にゆく者からの言葉』の中で自己体験をもって語られています。
幼少の頃に分け隔てなく素直だった心、純粋だった心。そして皮肉にも、人生の最期の一瞬に素直な自分になって、内に“澱”を残さず永遠の世界へ帰ろうとする心。
人生の幸福とか、安心とか、成長とは、実はこの素直な自分、分け隔てしない純粋な自分自身である瞬間を、少しでも多く人生の中に刻んでいくことなのかもしれませんね。
もうすぐお盆です。今夏で3回忌になる父の墓前で、掃除をし、花を手向け、香を灯しながら手を合わせて、素直になって父にも語りかけたいと思います。
「お父さんありがとう。そして私達を見守ってくれているご先祖様、本当にありがとう。私達はおかげ様で本当に幸せです」
合掌
Guts