それはあまりにも遠い昔のこと。
もう思い出すこともない、些細な出来事。そんなささやかな思い出さえも、
一瞬にして鮮明に蘇ることがあります。
きっかけは様々ですが、「時代」を思い出させてくれるのは音楽、
その「とき」を思い出させてくれるのは「匂い」だと思います。
白い花の香りが私を30年以上も前の、夏の終わりのある宵へと引き戻しました。
すでに大学生になっていた仲間2人と予備校通いの私は、
いつもの夜のようにドライブに出かけます。
ポール・マッカートニーの声が曲のタイトルを連呼すると、
熱い夏を終え、どこか感傷的な夜のドライブの始まりです。
男の子というものは、どの時代でもそんなことを繰り返すのでしょうか。
アメリカングラフィティのようにカッコ良くはないにしても、
これと言って目的も用事も当てもないまま、夏の名残の暑い夜、窓を開けはなし、
まだあまり慣れていないタバコをふかしたり、もみ消したりしながら
車をゆっくりと走らせていました。
いつもの喫茶店でミートパイとクリームソーダの遅い夕食を済ませ、
また車に乗り込みます。
ウィンドウのガラスをさげ、左腕を外に出し、車がゆっくりと走り出しました。
カセットが自動的にかかり、同じアルバムの3曲目「ブルーバード」が流れ始め、
車が緩やかに左折したときに、私の掌に何かが当たりました。
反射的に手を引き、車の中に戻すと
まるでタバコを持つように人差し指と中指の間に白い花が刺さっていました。
2コーラスを終えてサックスが流れ出した瞬間、
その白い小さな花が放つ甘く濃密な夏の香りが車のなかに広がりました。
友人は急にブレーキをかけ、車が止まり、3人は無言のまま。
ただ信じられないくらい甘い、切ない、胸が締め付けられるような香りが3人を包んでいました。
白い花の、甘い、夏の終わりの香り。
30年の時を越えてあの夜の一瞬がこれだけ鮮明に蘇る、
人の記憶のメカニズムとは、一体どうなっているのでしょう。
Miura Music Collection 9月のおすすめ
ポール・マッカートニー
『バンド・オン・ザ・ラン』
ホロヴィッツ
『子供の情景』 <シューマン>
暗闇へと逃げだす、素敵な脱獄囚がジャケットになっている「バンド・オン・ザ・ラン」がその日、その夜、その時にかかっていたアルバムですが、記憶を呼び戻してくれる暗号のような、夢の扉の鍵のような曲も合わせてご紹介します。
ホロヴィッツのシューマン「子供の情景」。あの聞き慣れた「トロイメライ」をもう一度聞いてみて下さい。