鶴瓶師匠

ほっとメッセージ

サッパリしたコンニャクに、
鉄の割り箸を二本つきさして・・・?

こんにちは。
お元気でいらっしゃいますか?

先日、兵庫の伊丹の実家に帰り、しみじみと思いふけることがありました。

田舎に帰ると、何かほっとする懐かしさが身体の中から湧き上がりますが、きっと故郷ってそういうものなんですね。

上京して28年。
すでに26歳まで過ごした関西時代より長く東京にいますが、中途半端な関西弁は直らず、いや直さずと言ったほうがいいのかもしれません。

地方出身者の多い東京は、隠れ○○県出身が多く、標準語を話さないと格好悪い?という上品?な文化があるからかもしれませんが、どこか関西に誇りを持つ人間としては、やはり「関西人は、関西弁が命や」と言わんばかりに、これまでずっと、少し標準語混じりの関西弁を守って生きてきています。

物心ついた時から吉本新喜劇を見続け、岡八郎、花紀京、原哲夫、チャーリー浜、木村進、そして間寛平さん達の何回観ても面白いギャグやボケ・ツッコミに触れて育つと、やはり、そのDNAはどこかに宿り続けます。

学生時代や社会人の宴席では、よく間寛平さんの「かい~の(かゆいの)」という電信柱に体をこすりつけるようなギャグで笑いをとり、その一発芸で窮地をしのいだことは多々ありました。まさに、芸は身を助くですね(笑)。

さて、その実家に帰った際に、40年ぶりに昔のアルバムを見返していると、小学校6年の時の卒業文集が見つかりました。

「何を書いてたんやろ~?」そう思ってじっくり読み返してみると、そこには・・・。

「サッパリとしたコンニャクに、鉄の割り箸を二本つきさして、大地にしっかり立っている、そんな人間になりたい」と書かれていました。

12歳とは思えぬおかしな一文。

すっかり忘れていたその表現でしたが、どこかで今もってそれを理想として追いかけている自分がいるのは間違いなく、ある意味これが私の初心で原点だったかもしれないと、ハッとしつつ、嬉しい気持ちになりました。

そして、もう一つ封筒の中に入って出てきたものが、中学2~3年の頃に、ラジオにハガキを投稿し、採用された時にもらった記念のキーホルダーでした。忘れもしない毎日放送ラジオで月~土の午後10時から始まる人気番組「ヤングタウン」。

そして、私がギャグを投稿して採用された、月曜日の人気パーソナリティーが、若かりし頃の笑福亭鶴瓶さんでした。

あの独特な親しみやすい声で、鶴瓶さんが私のハガキを読んでくれた時は、嬉しくて鳥肌が立ったことを今でも思い出します。

その時以来、私はすっかり鶴瓶さんの大ファンになりました。

「ええ人やなあ~。何かあったかいし、おもしろいし、親しみやすいわあ・・・」。

まだ中学生でしたが、何となくそんな風に感じて、憧れのような気持ちを抱くようにもなりました。

人と人とのつながりや共感力などを心に刻み、それが今日の温かさ、
親しみやすさ、ユーモアにつながっているのでしょう。

当時、鶴瓶さんはまだ20代。
アフロヘアにつなぎのジーパンで恐いもの知らずの時期でした。

その人並みはずれたサービス精神と行動力、そして誰の懐の中にもすっと入ってしまう天性の人間性は、豪放磊落で知れた伝説の落語家、笑福亭松鶴師匠をも虜にしてしまいます。

師匠に芸の稽古をいくら頼んでも、「おまえはせんでええ」の一言で、若い間はずっと古典落語を身につけられず、皮肉にも“落語を演らない落語家”としてユニークな地位を身につけていくことになりました。

弟子の真の個性や才能を一早く見抜き、好きなようにさせながら、今日の鶴瓶さんの人気と地位を確立させた六代目松鶴師匠は、やはり器の大きい素晴らしい師匠だったことが、今になってよくわかります。

そして、その器の大きさ、懐の深さは、一番怒られながらも可愛がられた鶴瓶さんにしっかりと受け継がれていきました。

当時、松竹芸能所属の鶴瓶さんはライバルの吉本興業がメインになっている舞台や高座、イベント、テレビ、ラジオには出ることが許されない時代でしたが、彼だけはあの持ち前のキャラクターと芸風で、その垣根を取っ払って出演するのを許されていた稀有な存在でした。

そんな順風満帆の鶴瓶さんが、関西で超人気番組になった「突然ガバチョ」という番組が全国放送になり、その人気から東京進出の機会が早くに巡ってきました

が、ある時、鶴瓶さんは若気の至りで放送コードにひっかかることをしてしまい、東京から追い出される試練を味わいます。

身から出たサビですが、それを機会にもう一度、足元を見つめ直し、大阪の地味なラジオ・テレビからやり直されました。

その時に、大阪の人気放送作家、新野新(しんのしん)さんとの出会いで生まれたラジオの深夜番組「ぬかるみの世界」や、上岡龍太郎さんとの出会いで生まれた「鶴瓶・上岡のパペポTV」が大ヒット。

それは、その後の鶴瓶さんの話術や掛け合い、空気感など、今日の名司会、MCなどの土台になっていきました。

ライブで行う番組の中で、数多くの日常の物語を背負っている視聴者やリスナーの方々との触れ合い、人と人とのつながりや共感力などを心に刻みつけられたのだと思います。

きっとそれが今日の鶴瓶さんのあの温かさ、親しみやすさ、優しさ、ユーモアへとつながっているのでしょう。

こだわらず、柔らかく、包容力のある人。
温かさと意思の二本の柱で大地に立っている人。

二度目の東京復帰後、また少し折り合いが悪く大阪へ戻されそうになった時に、「こいつを大阪に返すなら、オレはテレビに出ない」と言って、体を張って局に掛け合ってくれたのが、あのビートたけしさんであり、また、「必ずあんたに、これをやり続けることがよかったと思える日が来る」と言って、「笑っていいとも」の出演を長年続けさせてくれたのがタモリさんだったとか・・・。

若手を育て、若手から刺激を受け、幅広い領域へと芸風や人間性を高めることが必要だということを、タモリさんは見抜かれていたんですね。

まさに、一流同志が触れ合い、助け合い、刺激し合い、支え合う・・・。

それもこれもやはり、鶴瓶さんの様々な歴史を刻み込んだ、人柄のなせるワザなんですね。

「サッパリとしたコンニャク」とは、こだわらず、柔らかく、包容力がある人。

「鉄の割りばしを二本さした・・・」は、温かさと意志の二本の柱をしっかりさせて大地に立っている人。

そんな鶴瓶師匠のような人間力、人間味のある人を私は目指したいと今も思っています。

やっぱ、第一線で活躍され続ける芸人さんはホンマ、凄いですわ(笑)。

まいどおおきに。

Guts

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