博多の歴女●白駒妃登美の歴史ヒストリア
うちんTomodachi(私の親友たち)
第四話 戦国武将・真田幸村に学ぶ(2)
笑顔にした人の数だけ、人生が輝く。
大坂の陣で、天下の大軍を率いる家康に対し、決戦を挑む真田幸村。彼の戦略はただ一つ、敵将・家康の首を討つこと。
真田勢は、幸村の作戦通り家康の本陣に襲いかかり、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散(けち)らし、馬印(うまじるし)を倒すほど家康に肉薄しました。
真田勢の凄まじさに、家康は自害を覚悟したほどだったと言われていますが、結局は、兵力で圧倒的に勝る徳川軍に勝てず、幸村は討死を遂げました。
その翌年、家康は亡くなりましたが、「あの世で酒を酌み交わしたい相手」として幸村の名を挙げた…というエピソードが残されています。
さて、その幸村が、決戦を前にして最愛の娘・阿梅(あうめ)を託したのが、伊達政宗の重臣・片倉小十郎重長(かたくらこじゅうろうしげなが)でした。父を失った阿梅は、その後どのような人生を歩んだのでしょうか?
大坂の陣の3年後、片倉重長の妻が亡くなると、阿梅は彼の後妻となりました。片倉重長と阿梅の間には子が生まれませんでしたが、片倉家は、阿梅の兄弟を引き取り、養育したので、幸村の血は、片倉家の居城のある白石(しろいし)(現在の宮城県白石市)の地で受け継がれました。
徳川幕府に知られれば、片倉家だけでなく、主家の伊達家にも類が及び、取り潰しの危険性すらあったはずです。
そうした中で、片倉重長のとった行動は、「この男にわが娘を託したい」 と自分に惚れ込んでくれた稀代のヒーロー・幸村に対する最大の敬意だったのでしょう。
亡父・幸村の決死の働きが、阿梅に幸せをもたらしたと言えるのかもしれません。
男としての死に場所を得ることと、家族の幸せを願うこと。
一見、相反するように見えて、この幸村の二つの夢は、同時にしか叶えることができなかったのではないかと思います。
周りの人を置き去りにして夢を追いかけるのではなく、周りの人、大切な人を、とことん大事にして、大好きな人たちを笑顔にしていくという生き方がある…。
笑顔にした人の数だけ、人生が輝くということを、幸村が教えてくれているような気がします。