博多の歴女●白駒妃登美の歴史ヒストリア
うちんTomodachi(私の親友たち)
第三話 戦国武将・真田幸村に学ぶ
夢を追い続けながらも死の直前まで家族のことを思う幸村だからこそ。
歴女人気ナンバーワンといえば、「真田幸村」。
関ヶ原の戦いの時、幸村は父・昌幸とともに西軍につき、2代将軍・徳川秀忠の3万8千の大軍を、わずか3千5百の軍勢で撃破しました。ところが関ヶ原の本戦で東軍が勝ったために、敗軍の将として、紀州の九度山(くどやま)に配流(はいる)の身となります。
関ヶ原から14年。豊臣家は、来るべき徳川との戦に備えて、多数の牢人を大坂城に入城させましたが、その中に、家族とともに九度山を脱出した幸村の姿がありました。大坂冬の陣は、幸村率いる真田勢の活躍で、豊臣方が優勢のうちに和議が結ばれましたが、家康の謀略で堀を埋められ裸城になった大坂城は、ついに夏の陣で落城の時を迎えます。
その時、幸村は何をしたか…?
徳川方の将として大坂の陣に参戦していた伊達政宗。その政宗の側近が、片倉小十郎重長(かたくらこじゅうろうしげなが)です。幸村は、家臣に命じて、重長の陣地に最愛の娘 ・阿梅(あうめ)を送り届けさせたのです。一説によると、伊達勢の先鋒である片倉重長の勇将ぶりを目の当たりにした幸村が、「この男なら…」と、重長の陣に矢文を送り、婚姻の儀を申し入れたと言われています。
数日後、幸村は、家康をあわやというところまで追いつめましたが、兵力で圧倒的に勝る徳川軍に勝てず、壮絶な討死を遂げました。
「己が信じる道を突き進み、合戦で華々しく散る」のが、戦国時代の男の美学。
その美学を貫き、さらに四百年後の今も絶大な人気を誇っている幸村は、さぞやあの世で他の戦国武将たちの羨望を集めていることでしょう。
でも、その幸村が、自分の夢を追い続けながらも、死の直前まで家族のことを思い、娘の行く末を案じていた…というところに、私は深い感動を覚えます。逆に、そのように細やかな愛情を持つ幸村だからこそ、彼の夢を叶えるために家族も団結して協力し、家臣たちも絶望的な戦いの中で一糸乱れず彼に従い戦い抜いたのでしょう。
さて、片倉家に送られた阿梅の人生は…? この続きは、次回お話しさせていただきますね。